可哀想の先にあるもの
この年齢で一からやり直すのはかなり辛いものがある。
数年、もう一人でも良いやと思い、また寂しくなり誰かを探す。
可哀想な自分になりたくないのに根底にあるのは可哀想な自分を演じている姿だった。
夫を失ってもうすぐ五年。
離婚や死別を経験している人のブログを読みあさり、可哀想な自分を投影していた。
こんな辛い思いをしたんだ。立ち直れなくても当たり前。
そんな悲劇のヒロインは時にまわりも巻き込む。
気がつけば人を傷つけ、大切な人を失ってまだ自分は立ち直れなくても当たり前だというエゴのかたまりの自分がいた。
そのままで生きていくのはとても楽なことだ。
自分が可哀想。私は周りに傷つけられたと弱い自分でいることは心地がよい。
でも、もうやめることにした。
本当の意味での再生は無理でも周りを傷つけてまで生きていきたくはない。
きっとこんな結末を夫も望んではないない。
前を向いて自分の足で立って歩いていく。
それは大変なことも多いがきっと今より楽しいはずだ。
そう決めてから読むと死別や離婚を経験したブログには違和感を感じる人もいる。
すでに新しいパートナーに恵まれ、新しい人生を送っているのに、気持ちはまだ前のパートナーとの別れを悲しんでいる。
私が新しいパートナーだったらお断りだ。
自分はその人の代わりではない。
あの人だったらは終わった関係にはもうない。
どうか今ある幸せに気がつかず過去を大切にしていく人生が、どれ程周りを傷つけ大切な人を傷つけるかを失う前に気がついてほしい。
私のようになるまえに
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